Street Story Store

絶版・品切れ文庫を中心に在庫は2000点以上、2冊目以降の送料は全額無料です。在庫一覧のページもございますので、ぜひ一度ご覧くださいませ。
なお、当店はAmazonマーケットプレイスにて販売しております。

わたしたちはあまりに簡単に出鱈目を書けてしまう

2012.01.19 Thursday 01:42

これはペンです 円城塔著 新潮社

「叔父は文字だ。文字通り。」という文章でこの物語は始まります。僕にも姪っ子がいるのですが、こんなことを言われると正直困ります。この文章は不合理です。

ところが主人公と叔父についてのこの物語を読み進むうち、冒頭の不合理な文章が、もしかしたらもっともこの叔父について合理的に説明している文章であるような気がしてくるのです。叔父が何者なのか、という彼の存在についての最も合理的な説明は、叔父は文字である、というしかなくなってしまう。

なぜそのようなことになるのか。それは僕たちが「言葉」を使うことによってしか考えることができない、逆に言えば、考える、ということは言葉を使って、その言葉を「文章」という法則に当てはめることだからです。

僕たちは「言葉」を使うことによってしか考えることができない。たとえば僕は今「これはペンです」という物語の感想をこうして書いているけれど、それはこの物語について考えたことを書いている。考えたことを絵に描くこともできるかもしれないけれど、それはたぶん人には伝わらないし、それは「感じた」ことであって「考えた」ことではなくなってしまうのです。

考える、ということがすなわち「言葉」である以上、それは「文章」という法則に縛られてしまう。つまり「叔父は文字だ」とはいえなくなってしまうのです。

しかし叔父は言います。

「わたしたちはあまりにも簡単に出鱈目を書けてしまうと思わないかね」と。

「文章」が法則である以上、逆に言えばどんな意味のない「言葉」でも、法則にのっとっていればそれはある種の意味を持つことができる。でも、何も考えなくても、「文章」は書けるのに、必死に考えた言葉は、法則にのっとらなければ「文章」にすることができない。

ならば僕たちが「考える」ということは、いったい何なのでしょう。

そもそも僕たちは、当たり前のことについていちいち考えたりはしません。ふと立ち止まって考えるのは、目の前に不合理な何かがあるときです。そのとき、僕の頭の中ではたくさんの「言葉」があふれ出し、それがきちんと「文章」という法則にのっとるようにしようとする。

そうしてきちんと文章になった言葉は、なぜか、僕が立ち止まって考えたあの不合理な何かではすでになくなってしまっているのです。文章にしたとたん、こう思うのです。

「いや、そんなことが言いたいわけじゃなかったんだ」

「言葉」があるからこそ、僕たちはものを考えることができる。ところが、僕たちが考えたことは、本当は決して「言葉」にできない。

でも、もしかしたらそういう「言葉」にできないものをこそ、「言葉」にする必要があるのかもしれません。不合理な事象を、その不合理さを残したまま、「文章」という法則に当てはめようとすること、それが文学なのかもしれない。

何を言いたいのかわからなくなってきました。そういうものです。こんなことが言いたいわけじゃなかったのです。でも、だからといって本当に言いたかったことを書くのは多分無理です。それに、ここまで書いてきた文章も、やっぱり言いたかった何かではあるのです。

これはペンです 円城塔著 新潮社

本のこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

理性と論理は魔術を打ち破る

2011.12.19 Monday 00:20
折れた竜骨 米澤穂信著 東京創元社

推理小説とファンタジーを足して2で割った、というよりも、1+1が3にも4にもなっている物語。

この物語の重要人物である騎士ファルク・フィッツジョンは言います。「理性と論理は魔術を打ち破る」と。

それは事実でしょうか。それとも、それは推理小説の中でのみ起こりうることなのでしょうか。

確かに、推理小説の中でなら、理性と論理が魔術を打ち破ることはできるかもしれない。なぜなら推理小説の中での推理は読者にも与えられた情報によってのみ行われるものではならない、公正でなければならない、というルールがあるから。

でも現実ではどうでしょうか。もちろん、現実には魔術は存在しません。恐らく。でも、魔術的なことならたくさんあるでしょう。秘められた情報、もしくは理解できない情報によって起こるさまざまな事象は、今でも多くあります。

そのように考えれば、意外と現実もまた魔術にあふれた世界なのかもしれません。

それでも、僕たちは推理小説のように理性と論理を持ってその魔術を打ち破ることができるでしょうか。

科学者であれば、もちろんできる、と言うでしょう。

でも僕が今話そうとしてるのは、そういう科学の話じゃなくて、もっとくだらない、ばかばかしい話です。

たとえば、なぜ僕はすごい大富豪の家に生まれなかったのだろう、とか、要領のよい人間に生まれなかったのだろう、とか、そんなことです。なぜこんな馬鹿みたいなことしか言えないんだろうとか。

逆に、たまたま僕は平和な日本に生まれたのでよかったけれども、もし何十年も内戦の続く国に生まれていたら、どうしてこんな国に生まれたのだろう、と思ったかもしれません。五体満足で生まれたからよかったけれども、そうじゃなかったら悩んだでしょう。

そういうことって、やっぱり不思議だと思うのです。

でもそんなこと考えたところで仕方がないから、がんばって勉強して賢くなろう、とか、がんばってお金を稼ごう、と思う。どのような状況で生まれたとしても、幸せになれるかどうかは自分次第だ、と。

そう思えるのは、たとえ不公正であるように思えるようなことがあったとしても、それは魔術のようなもの、現実がいかに特殊な条件のように思えても、探偵が事件を解決するように、自分も解決することができるかもしれない、と信じるからでしょう。

殺人事件だけが事件ではありません。この世に生まれてきて、この世で生きていくこと自体が何より重要な事件です。

ならばこの事件を、時には魔術かと思えるような不可思議なこの世界を、論理と理性をもって打ち破っていこう。特殊な状況のことを考えても仕方がない。考えても仕方のないことにとらわれず、自分の理性と論理を信じろ。

それが、この物語に描かれた殺人事件の犯人探しとは別の、もうひとつの物語です。そしてこの物語は、主人公である領主の娘アミーナとファルクの従士ニコラという、別の意味での二人の探偵の物語のプロローグでもあります。


そんな、理性と論理を信じる作者の米澤穂信さんという人ですが、こんな物語を書けるなんて、本当に魔術師のような人だな、なんて思うのでした。

折れた竜骨 米澤穂信著 東京創元社
本のこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

人間の絶望と希望

2011.12.14 Wednesday 00:11
ジェノサイド 高野和明著 角川書店

このような物語が形にならずに頭の中にある、というのはどういうことなのか、僕には想像ができません。とにかくスケールが大きい作品です。

この物語の中には、人間という生物の醜さ、恐ろしさが描かれています。生まれた国や文化は関係なく、人間という種が元々持っている残虐性が問われているのです。

そのような人間の残虐性、大量殺戮のよりどころとなるのは一体なんでしょうか。

それは、人間の社会性です。

例えば、理系だとか、労働者だとか、そういった僕たち自身が日常行っている自分が属しているグループに対する意識ですら、時として自分とは異なるグループのことを劣っている、間違っている、悪いやつらだ、と思ってしまいます。それが異国や異民族や異教徒間の戦争であれば尚更です。

だから人間は、同種間で殺しあうことができる。それは相手のグループを同じ人間として認めないということです。だから残虐な行いができる。残虐であればあるほど、自分たちの正当性に対する証明になるのだと思います。

僕は前々回のこのブログで、たとえ社会にとっての自分の意味を感じることはできなくても、関係性の中に意味を求めることができる、と述べましたが、まさにそれと同じ理由で、おそらくその関係性の中に求めた意味によって、僕たちは争ってしまうのです。

その関係性が正しい、とか、強い、ということを証明したいがために。

ただ、人間は弱い、醜くて残酷な動物だけれど、でも、それだけではありません。

同類を大量殺戮するのと同じように、僕たち人間ほど同類を大量に助けようとする動物もいません。

この物語の主要人物が傭兵と薬学を研究する大学院生なのは、人間の持つその二つの側面をあらわしているのでしょう。

人間はこの物語のように、まったく知らない誰かとも、何かの目的のために協働できます。国籍も、人種も、年齢も、宗教も、性別も、すべてを超えて繋がり合うことができる。まさしく日本語で言う「人間」もまた、人間の特徴なのだから。

つまり、人間の残酷さも、慈悲深さも、同じ部分、人間が築く関係性から出てきているということなのです。

だから、残酷さを否定することができないということは、人間の慈悲深さもまた否定することができないということになります。

僕には何万人の人を大量殺戮するような力はありません。何万人の人の命を救う力もありません。でも、自分の身の回りの人を不幸にしてしまう程度に、自分の身の回りの人を幸せにすることならできるかもしれない。

それは同じこと。表であろうと、裏であろうと、それが一枚のコインであることは変わりません。

人間とは何か。

そう考えたときに、僕たちが絶望してしまう、僕たちの中にある何か、実はそれこそがきっと、僕たちの将来に対する希望でもあるのです。

ジェノサイド 高野和明著 角川書店
本のこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

勝った者が強いわけではない

2011.12.06 Tuesday 00:27
ヴォイド・シェイパ 森博嗣著 中央公論社

主人公ゼンは幼い頃に剣術の達人カシュウに引き取られ、山奥で二人、剣の修行をしながら暮らしていました。しかしカシュウが病によって死んでしまったことにより、ゼンは山を降ります。そしてほかの侍や僧や百姓と出会うことになるのです。

この物語は、ゼンの独白によって進んでいきます。それは彼の考える道理です。剣術の修行者としての道理、そして山で育った者としての自然の道理です。

剣術者としては、当然強くなること、というのが目的になります。でも強くなる、ということはどういうことなのか。なぜ、なんのために強くなりたいのか。

侍の道理であれば、それはよりよい職を得るためであったり、家を守るためであったりするのでしょう。ところがゼンにはそういうものはありません。山で育った彼には守るべき何もなく、いい暮らしをしたいというような欲もありません。

百姓や商人の道理ならばどうでしょうか。武力を持つ者が、腕力の強い者がいい思いをするような道理は正しいといえるのでしょうか。

世の中には様々な人たちがいて、そしてその数だけの道理があるのでしょう。だからこそ道理がぶつかり合うことになる。そしてそこに力関係が生まれてくる。

カシュウは生前ゼンに「考えるな」と言いました。それは答えを求めるな、というようなことかもしれません。

答えを求める、ということは、何かの立場に立つということになります。侍の立場であったり、百姓の立場であったり。人としての道理を否定して自然の道理を振りかざしたり。

そうして自分の立場に立脚するからこそ、自分の道理を他人に押し付けようとしてしまう。押し付けるために強さが必要になる。

でもそれは本当の強さなのでしょうか。そのように自分の道理を他人に押し付ける者は、本当に強い者といえるのでしょうか。

他人に対する強さではなく、自分自身に対する強さ、というものが本当の強さなのではないでしょうか。

ならば、本当に強い者というのは他人に勝つ者ではなく、自分に勝つ者であるはずです。

では自分の何に勝つのでしょうか。

それは自分の強さでしょう。その強さというのは、自分が拠って立つ道理です。

そう考えるならば、そもそも勝負になる、道理がぶつかり合う時点で自分が弱いのだ、ということになります。たとえ勝負に勝ったとしても、それは自分が強いからではなく、相手が自分よりもなお弱かっただけに過ぎません。

そのような境地に人はたどり着けるものなのか、僕には分かりません。

ただもしそのような境地にたどり着いたなら、きっとこう思うのだろうと思います。

なぜ、何のために強くなりたいのか、と。

ヴォイド・シェイパ 森博嗣著 中央公論社
ヴォイド・シェイパ
本のこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

無意味な私が無意味な世界にいることの意味について

2011.11.30 Wednesday 20:29
「パロール・ジュレと紙屑の都」 吉田篤弘著 角川書店

この物語の主人公は紙魚(フィッシュ)です。紙魚とは本の余白に時折ついている、小さなインクのしみ。紙魚はその小さなしみとなって本の世界の中に入り込むことで、その本とともに時空を超えて移動したり、その本の中の人物に成り代わって現実の世界に現れたりすることができるのです。

紙魚はある組織の諜報員としてパロール・ジュレ〈凍った言葉〉について調べていきます。

もしも世界が一冊の本の内容のようなものだとするならば、紙魚とはどんな存在でしょう。それは内容にとって何の意味も持たない、無駄なものです。逆に、それがあるゆえに価値が落ちるわけでもない。あらゆる意味において、それは確かにそこにあるとしても、だからといって何の意味も持っていないものなのです。

そのようなフィッシュは一人の人間に置き換えれば、語るべき自己というものを持っていない存在だといえるでしょう。例えばその姿も、その記憶でさえも、彼にとってはどこかの本の中に書かれてあった物語であって、彼自身の物語ではないのです。

そして彼は確かに物語の舞台であるキエフの街にいるのだけれど、そのことはこの街にとって何の意味もない。いてもいなくてもかまわない。それでも彼はキエフという街で、さまざまな人々と関わりあっていく。言葉を交し合っていく。

もしも彼が何の意味も持たない存在であるのならば、その無意味な存在である彼が誰かと関わりあうことには何か意味があるのでしょうか。どんな物語が生まれるというのでしょう。そもそも物語が生まれえるのでしょうか。

もちろん、物語はそこに生まれ、だとしたら確かにそこには何らかの意味が生まれるのです。つまり、たとえ無意味な存在であったとしても、無意味な存在と無意味な存在の間の関係にさえ、そこには繋がり合うことで何らかの意味が生まれてくる。

意味というものは、存在そのものの中にある何かではなく、存在と存在の関係性のことなのかもしれません。

例えば僕がここまでつむいできたこの文章は、何らかの意味を持つものなのでしょうか。誰かがこの文章を読んだとして、やはり何らかの意味を持つでしょう。良い意味かもしれないし、悪い意味かもしれない。意味がないという意味かもしれない。もしも誰一人この文章を読まなかったとしても、今これを書いている僕自身にとってはこの文章は何らかの意味を持っているのです。

それはこの文章が僕とあなた、もしくは僕と僕自身の関係の中にあるからだといえるでしょう。

でももしも、この文章が決して誰の目にも触れることがなく、僕自身がこの文章のことをまったくの無意識に発していたとしたら。あらゆる関係性がすべて否定された状況の中で、この文章はどうなるのでしょうか。

僕たち自身はどうなのでしょう。僕たち自身の存在に果たして意味はあるのでしょうか。語るべき物語を持っているでしょうか。

僕にはそのようなものはありません。平凡で無力で、いてもいなくても社会には何の変化もないでしょう。だから僕は自分の物語を作っていかなければいけないのでしょうか。

そのような、存在としての自分という意味、なんて本当はなくてもいいのかもしれない、元々ないものなのかもしれません。

だけど僕にも例えば家族なり友人なり大切な人々がいて、僕とその人たちの間ではそれなりの意味を持っているのです。

そのつながりという意味、関係性という意味を失ってしまったら、どうなってしまうでしょうか。例えば水はつながりを失ってしまえば、動くことができなって凍ってしまうでしょう。

もしも僕が凍ってしまったら、フィッシュが僕を見つけてくれるかもしれない。そしてフィッシュは僕を解凍士の元に連れて行くでしょう。解凍士たちはそんな凍った僕の姿を見て、何故そうなってしまったのか、いろいろと語り合うでしょうか。

本を読むということも同じことでしょう。作者が死んでしまって、誰も読む人がいなければ、遺された本は凍ってしまっているようなものかもしれません。だけど僕たちがページをめくれば、僕とその本との間に関係が生まれ、そこに何かの意味が生まれるのです。

「パロール・ジュレと紙屑の都」 吉田篤弘著 角川書店
本のこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

草木を育てる。草木と話す。

2011.11.26 Saturday 20:17

「不思議な羅針盤」 梨木香歩著 文化出版局

「不思議な羅針盤」というのは、この本の編集者の方の考えたタイトルだそうです。

羅針盤の針がなぜいつも同じ方向を向くのか、それは科学で説明することができます。でも、もしも今手の中にある羅針盤が「不思議」な羅針盤だったら?

それはどんな羅針盤なのでしょう? それは科学的に正しい方向を指さない羅針盤なのかもしれない。もしくは、決して正しい方向を指さないのに、科学的に説明できてしまう羅針盤なのかもしれない。

僕たちはみんな、大海原の一隻の船なのかもしれません。そして羅針盤を手に、どの方向に行けばいいのか悩んでいる。

もちろんみんな正しい羅針盤を使いたいはず。でも、科学的に正しい方角が本当に「正しい」方角なのか、わからなくなっている人も多いのではないでしょうか。

科学の発展はもちろん大事。でも、それが必ずしも将来の幸福につながるとは思えない。科学の発達で失われてしまったものに、何か大切なものがあったような気がするのです。

欲張りかもしれないけれど、僕はきっとどちらも求めているのだと思います。科学は大事、でも、科学で説明できないことだって大事なのです。

だから梨木さんと同じように、僕たちも羅針盤を求めている。それは羅針盤であってほしいけど、「不思議」な羅針盤であってほしい。

例えば庭やベランダで草木を育てる。そのとき頼りにするのはもちろん科学的な知識です。どのような堆肥を使おうか、どの間隔で水をやればよいのか。でも、水をやるときには声をかけながら水をやる方が、なんだかより幸福であると思います。その行為に科学的根拠があろうとなかろうと。

科学に限らず、いろいろな合理性に対して、そんな姿勢でいられたらいいなと思います。

「不思議な羅針盤」 梨木香歩著 文化出版局

 

本のこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

推理をしない推理小説

2011.11.21 Monday 22:13
「黒猫の遊歩あるいは美学講義」 森晶麿著 早川書房

第一回アガサ・クリスティー賞受賞作。

「のだめ」と北村薫の「空飛ぶ馬」とポオの作品に対する解釈を足して3で割った感じ。僕は結構好きです。

一風変わったミステリ、というよりもこの小説はミステリにおける初の試みなのではないでしょうか(寡聞にして僕が知らないだけかもしれませんが)。

一般的なミステリの場合、ある謎があったら探偵役がその謎を解決する際には、その推理は現実的でなければいけない。読者であったりワトソン役の主人公が、なるほど、と思えるものでなければいけないでしょう。

ところがこの小説の場合、探偵役の黒猫が行うのは、推理のように見えて推理ではないのです。彼が述べるのは謎に対する解釈、その意味は何か、何を象徴しているのか、ということ。

たとえば僕たちが絵画や映画を見たり、小説を読んだりしたときにふと考えるような、「これは何を意味しているんだろう?」というようなことです。村上春樹の1Q84における二つの月が意味することはなんなんだろう、というような。

面白いのは、いわゆる普通の推理小説における推理も、この小説で黒猫が行う事件の解釈という推理も、どちらも論理的である、ということでしょう。マイケル・サンデルが白熱教室で例に出した暴走トロッコのように、現実と論理はしばしば矛盾してしまうことがあります。

ミステリファンはこの小説を読んでも、期待したような解決は得られないかもしれません。でも、この物語の中では一応事件は解決するのです。それは言ってみれば、美学的解決とでも呼べる解決です。

美学的解決って何か、それはいわゆる解決といえるのだろうか、そう考えると、この物語自体が推理小説というジャンルに対するひとつの解釈である、とも言えるのだと思います。

物語としては推理小説としての体をなしながら、実際には推理をしていない推理小説。

推理小説の意味は何か、それの象徴するものは何か。黒猫の気分になってそんなことを考えてみるのもいいかもしれませんね。

「黒猫の遊歩あるいは美学講義」 森晶麿著 早川書房
本のこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

怖がる必要はない

2009.08.19 Wednesday 19:40

空を飛んでいて、為すべきことがあるとき、怖がっている時間はないということを、彼女は学んでいた。そして為すべきことを為しおえたら、怖がる必要はなくなるのだ。
   ――リチャード・バック「フェレット物語 嵐のなかのパイロット」より

怖がっている時間も、怖がる必要もないですね。自分のなすべきことをしていきましょう。

ことばのこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

不安はあこがれに近い

2009.08.17 Monday 19:07
 行動力があることが、かならずしも現実的に考えるしっかりとした心をもっているとは限らない。でも考えすぎると、できることもできなくなってしまうことだってある。不安だらけだったけど、不安はとってもあこがれに近い。そしてあこがれからはおもわぬ力がうまれるし、ときには大きな贈り物も授けてくれる。
   ――角野栄子「ファンタジーがうまれるとき」より

新しく何かを始めるとき、いつも不安が付きまとうものだけれど、だからこそそこからうまれる力もあるのですね。

ことばのこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

くまの一ぴきぶん

2008.12.29 Monday 17:53
いいんだよ。ねずみは、ねずみ一ぴきぶん、きつねはきつね一ぴきぶん、はたらくのさ。だれのなんびきぶんなんかじゃないんだよ。おとうさんはくまだから、くまの一ぴきぶん。ウーフなら、くまの子一ぴきぶんさ。みんなが一ぴきぶん、しっかりはたらけばいいんだ。
                       ――神沢利子「くまの子ウーフ」より

今年ももう終わりですね。もうみなさん仕事納めでしょうか。しっかり働いた分、お正月はゆっくりできるといいですね。

ことばのこと | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |